この東京の片隅で

  • 始めに

 この日記でこんな事を書くこと自体、不適当であるかもしれないし、もしかしたら大変な失礼になるかもしれない。

もし、不適切な表現が失礼にあたることがありましたら、お申し付けください。

  • この東京の片隅で、

未だに過去の被差別の影を感じることがある。それは目に見えないものであったり、形にならないものであったり、具体的な事実であったりする。

仕事柄、いろんな土地、いろんな職業の方と話をするから、そんな事実を肌で知らされるととても苦しくなる。不動産屋さんは土地柄について詳しいし、皮革製品会社の社長さんは『昔の話だけどな』とその場所で起きた事実について話してくれる。それらを俺は目で見たことはないし、これまで幸いにもそのような不当な扱いは受けずに済んでいる。それがかえってやり場のないもどかしさを呼び、俺の中で氾濫する。

いったい俺はどうあればいいのか、どうしたら救われるのだろうか、どうしたら過ちは拭えるのか、どうしたら赦されるのか…。

今の俺にはこの答えは出せなかった。
ただ、もう少し身近なモノで考える事は出来る。




 俺が弾くジャズももともとはBLACKな人間の言葉に出来ないBLUEを叫ぶモノであった。それが具体的にどんな想いか、俺は実際には知らずにその音を聴いて、奏でていた。

人の生来持つ残酷な愚かさ:排他による仲間意識、比較同情による優越感(=自分の現在に安堵する為の幸福基準)というのは、人類皆老若男女持ち合わせているいわば保守防衛本能だと思う。

ただ、その本能に社会、権力が右へ倣えでついて来てしまった時、取り返しのつかない事が起こる。あるものは自分が対象になりたくないからいじめ、あるものは金のために、快楽のために、そして周りは『右へ倣え』。
特に快楽のためなんて理由にもなりゃしない。可哀相ではあるけど同情すらくだらない。




        みんな、ホントはわかってんだろ?




さっさと腹くくって今の自分の小ささ認めようぜ、さもなきゃ前に進めるもんも進めなくなっちまう。



そしたら…もうちょっとこの世界、楽しくなるよ。     きっと。